日曜日, 6月 13, 2010

いとしのエリック・クラプトン

最近は記憶力の低下が気になる。だから、大切な記憶はどこかに留めておこうと思う。
今日のエピソードは、Eric Clapton(エリック・クラプトン)。

私がエリック・クラプトンに偶然出会ったのは、1988年11月。なんと、成田空港の出発ゲート階下にあるトイレに駆け込む直前であった。彼のニューアルバム[AUGUST]を当時のウォークマンで聴きながら、ふと先方を見ると特別ゲートに総勢10人くらいの外国人がざわざわと集まっていた。
後で判明したのだが、私が仕事のために泣く泣く見送った「エリック・クラプトン日本公演ツアー」を終えて、帰国の途に就くクルー達だったらしい。
私は目ざとく、その中にエリック・クラプトンの後姿を発見した。彼のコンサートやPVを見続けているファンならば、後姿だけでも見分けはつく。とは言え、彼の"Tearing us apart"を聴いているまさにその時、本人が目の前に現れたのだから、その衝撃は言葉では表せない。



"Mr. Clapton?" 思わず声が出た。
驚くことに、彼は"Yes"振り返り、私の方にスタスタと歩み寄ってきて、階下から見上げ、にっこり笑って聞き返してくる。
"What's your name?"
どうしよう、私の名前なんか言ったって誰だか判るまい。相手は世界の3大ギタリストの1人で、神様だ。
返答に困って汗が出た。しかし、バカみたいに無言で微笑んでばかりもいられない。仕方なく、私は自分の名前を告げた。
彼は頷きながら、一瞬首をかしげた。思いだせないというように。どうも、私の親しげな呼びかけに、日本公演の日本人スタッフと間違えたらしい。
言いたいことは山ほどあったが、"I'm a crazy fan of you and very happy to see you..... Take care!"と中学生英語のようなアホらしい決まり文句しか出てこなかった。そして、彼は手を振りながらゲートに消えた。

茫然として連れの待つロンドン行き搭乗ゲートに戻り、コトの一部始終を話すと、友人が言った。「同じフライトなんだ。アンカレッジ経由だから、また会えるね、きっと」と。
私は仕事柄、芸能人や有名人に会う機会は度々あったが、パパラッチのような追っかけには全く興味がなかったし、今でも関心はない。だが、この時だけは違った。エリック・クラプトンを知らない友人に、永遠とその音楽の魅力を語り、アンカレッジでいかに再び彼を捕まえるか、どうやって記念写真を撮るかという策を機内で練り続けた。

アンカレッジで給油する時間は1時間弱だったと思う。乗客は殆んど機外に出て、トランジットエリアでショッピングをしたり、バーに入ったり、軽食をつまんだりしていた。エリック・クラプトンも例外ではなかった。
数人のクルーとビールを飲んで談笑していた。私達はカメラを抱えて、ガラス越しに「その時」を狙って、右に行ったり、左に行ったり。突撃しようかと思ったが、あまりの人の多さにシャッターチャンスは全くない。私と友人は搭乗口前のベンチでひたすら彼を待つことにした。殆んどの乗客がコールのアナウンスに合わせて搭乗後、彼らがゆっくりやってきた。入口に立っていたブリティシュ・エアウェイのスチワーデス達も彼を見て、興奮しながらつぶやいた。
"Oh, Jesus Christ!!"
そうだ、英国人の彼女達にとっては、当然、彼は神様なんだと妙に感動したのである。

「そらっ、今だ! 走れーっ!」 すでに誰もいなくなった機内までのブリッジを彼らを追って全速力で走った。
"Mr. Clapton?"  私は再びやってしまった。エリック・クラプトンとクルーは立ち止まって振り返った。そして、彼らは私達を見て笑った。想定内という感じで。クルーの1人が、「とうとう来た、来た!写真撮ってあげれば?」と彼に言った。
"Take a picture with ME, please!" と駆け寄ると、エリック・クラプトンはその大きな手を私に差し出した。「これが本物のスローハンドだ!」とぶつぶつ言いながら、私はしっかり握手した。その後、彼はカメラに向かって、私の肩をギュッと抱いてツーショットとあいなった。
心臓が飛び出すかという思いはこんな時のことを言うのだ。


彼と友人とのツーショットは私が撮ったのだが、ブルブルと手が震えて、全く記念写真にはならず、後で友人にこっぴどく怒られた。
その時、成田では言えなかった言葉が次々と飛び出した。「あなたの音楽は最高」だとか、「スローハンドに触れたのは幸せ」だとか、「次の日本公演には絶対行く」とか、単なる追っかけミーハーの極みである。

エリック・クラプトンは、そんなくだらないファントークに応えながら、機体の入口で何回も投げキッスをしながら機内へ乗り込んで行った。
私の人生で最初で最後のパパラッチ体験は、そこで終わった。20年以上も前の話である。

私は様々なジャンルの音楽を聴くが、エリック・クラプトンのおなかの底にズシっと響いてくるギターの音と擦れた声には特別な想い入れがある。特にブルースはたまらない。
彼の音楽に興味を持ったのは1980年代に入ってからで、ザ・ヤードバーズ、クリーム、デレク&ドミノスなどの輝かしい時代の音楽はそれまで知らなかったし、フィル・コリンズを聴いていて彼に辿り着いたという有様だった。
今では、「いとしのレイラ」だけでも様々なバージョンを揃えて、私の所蔵するCDの中では、彼のものが最も枚数を数えるほどになったが。




最近ではiTune Storeのお陰で、音楽はデータDLすることも多くなったが、やはり彼や大好きなアーティストの新譜はCDで買ってしまう。
解説に目を通したり、CDジャケットを確かめたくなるから。
電子化が進んで、こういう楽しみがなくなる事には少し不安も感じている。このあたりは、デジタルネイティブと大きく違うカルチャー感かもしれない。



さて、今日は久々に彼の"Danny Boy"を聴こう。
この聴きなれたアイルランドの民謡も彼のアコースティックギターにかかると、沁み渡る泣きの音色になる。
人間の魂の深さを感じさせる音色は、何度聴いても、体中を感動させる。
私にとっては、疲れた時の至福のひと時とも言えるようだ。

水曜日, 6月 09, 2010

たかがKPI、されどKPI ?!

「この企画で投資効果はあるんですか? 」 ― こうしたクライアントの問いかけに、「またか!」と頭を抱える広告人は多いはず。昨今の厳しい景況感の元、ムダな広告販促費を使いたくないというクライアントの意向はもっともな事ではあるが。

そこで登場するのが、ご存知のKPI(Key parformance indication:重要施策指標)。企画施策の効果を可視化するための指標である。本来、指標とは数値だけではないのだが、多くのクライアントは数値を拠り所とする。広告代理店のマーケタ―は、いかに、投資効果が良い企画であるかを客観的な数字を使って、説得に走らねばならない。
デジタル企画が増加するにつれて求められることの多くなったKPIだが、元々は、「モノを売るためにかかる投資コストの妥当性」を観測するための指標で、ダイレクトマーケティングからの発想。今では、「売り」に直結しない広告費は真っ先に削減されるので、何でもかんでも呪文のようにKPIと言われるのだ。
しかし、このKPIとは、事前予測値としては、どこまで信憑性を期待できるのであろうか。

広告施策がデジタルメデイアだけで完結する場合は、過去のベンチマークとなるログデータを参考に組み立てれば一応それらしい効果予測は出来上がる。問題は、リアルメディアとデジタルメディアを組み合わせたクロスメディア施策の指標化だ。

リアルの世界での数値とは、TVは世帯視聴率が殆どで、例え個人視聴率があったとしても視聴者数は推定数値にすぎない。新聞・雑誌等の発行部数は、広告主対策とも言える水増し気味の公称部数とABC協会が発表する発行部数では大幅な誤差が出る。実売数に至っては、公称部数の半分以下ということもある。
かつて、「実売数が低いと編集部の士気が下がるから、出版社内部でも機密事項なんです」と聞いて、ニヤリとしたことがある。
交通広告では乗車客数や通行者数の概数しか出てこない。車内吊や大きな駅貼りポスターだって、公表相当数の乗客や通行者に本当に見られているとは限らない。
例え調査結果として数値が発表されても、インタビューやアンケート調査であればデジタルログのような証拠に裏打ちされていないのだから、やはり推定数値としか言いようがないのだ。



そもそもリアルメディアでの広告とは、直接、販売効果を狙うというより、ブランディング効果や製品認知を上げるなどの目的で使用される事が多く、リアルメディア広告単体で直接的な販売効果を予測すること自体が不可能であり、不毛でもある。

しかし、クロスメディア施策の場合、殆ど販売が最終目的になり、リアルメディアの広告からいかに多くの人々を企業のWEBページやECサイトにドライブさせられるかという予測を立てなければならない。しかもCPA(製品を1個売るのに掛かる広告費単価)が2000円のように条件設定されていたりする。
効果予測する時に重要なことは、クライアントの過去の実績データを可能な限りの開示していただくことと、数値化しやすいデジタルメディアの指標にリアルの指標をいかにすり合わせるかを考えること。つまり、リアルメディアのImpressionや、Search、CTR(Click Through Rate)が、どの段階のどの数値を指すのかという明確な尺度設定が重要になってくる。

そして、最終的には、ブランドや製品カテゴリーの動向や時代のインサイトなどに照らしながら、リアルメディアから提供される数値を増減して全体像に組み込んでいける個人の「経験」と「読みの判断」が決め手になると思うのである。
膨大なデータを抽出するシステムやアプリをつくれば自動的にはじき出せるような錯覚に陥るが、私は決してそうは簡単にはいかないだろうと思っている。
「なんだ、感ピュータか!」と笑われそうだが、実はそこがマーケティング・コミュニケーション・プランナーの実力なのだ。

KPIとは広告活動のバイブルでもない。クライアントとの信頼関係の中で、あらゆる施策を共に軌道修正するために使われるべき指標だと思っている。

そう言いながら、マーケティング・コミュニケーションプランを考える時、KPIが絶対値ではないと知りつつ、必死で数値の条件を洗い出し、その数値に捕り付かれそうになる自分がいることも確かなのだけれど。





土曜日, 5月 29, 2010

Twitter広告って、どうよ。

日本のTwitterユーザーが今年中には1000万人を超えるという。今や青色吐息の広告業界がこの勢いあるTwitterでの広告機会を見逃すはずはない。最近では、TL内でのつぶやき広告配信「つあど」やアフィリエイトを付加した「つぶレコ」 の開始が発表され、Twitter内で是非の論議を呼んでいる。この議論には、個人からの発信をベースに成立しているTwitterの世界に、コマーシャリズムをどこまで持ち込むか、持ち込んで良いのか、という点で見解の相違がある。

米国Twitter社からは「基本的に第三者のTL内ペイドパブは禁止」の宣言も出されたが、個人発信なら良いとか、ハシュタグをつければいいとか、既に米国では"Tweet Up"(Twitter用のAdsense)"が開始されいるではないか等、どうも許容基準は依然としてグレーだ.。

Twitterを使う目的は人それぞれ。他人との緩いつながりを求める人もいれば、自分の欲しい情報を素早く収集したい人もいる。私はどちらかといえば後者だ。もっとも、Twitterを始めてみると、音信不通になっていた友人と再会したり、優秀な同業者の方々を発見したり、140文字で文章を書く意義を感じたり、有益な情報キャッチする以外にも面白い副産物があることを実感している。



マーケティング・コミュニケーションに関わる仕事をしている私にとって、当然、広告やPRの話は他人事ではない。Twitterを使って、企業と人々を効果的につなぐ方法も模索している。TLに煩いほど大量の広告が流れるのは考えものだが、「つあど」や「ついレコ」のように明確にコマーシャルだと区別できるものの方が、案外、健全なような気もするのである。
それよりも、詐欺的なツィートやPsychological trap (意図的にマインドコントロールをする)のような悪質なパブが混在する事の方に危惧を感じるのだ。

よく考えてみると、このような広告手法の善し悪しはリアルの世界でも従来から問われてきたことであり、即時的な炎上はないにしろデジタル世界と大差はない。広告・PR活動では発言力や人気のある人をEndorser(ブランドや商品を支持する人)として起用している。TVCFのようなものであれば問題にもされないが、商業的な起用なのか、偶発的なものかの見分けのつかないことが、時として火種になる。

例えば、「テストモニアル」。注目されている著名人等が自分で使ってみて良かったと他人に勧めるような手法だ。通常は企業から対価を得て、発信する。ビジネスだから本人が本当に使用しているのか否か、評価しているのか否かは別のところにある。
また、「プレイスメント」では、人気ドラマなどで目につく場所に売りたいブランドや商品が露出される。又は、コーヒーショップで頼みもしないクッキーが一緒にサービスされるということもある。
企業は、一般の人々には気づかれないように、ブランドや製品と自然に出会える場を自然なカタチで用意している。そんな仕掛けづくりを広告代理店は年がら年中、考えているわけだ。

私自身、広告代理店時代は大いなる仕掛け人を目指した。それでも一般の人々を騙すようなコミュニケーションは良しとはしなかった。「仕掛ける」のと、「騙す」のは全く違うことだから。
意識的な悪意があるか、ないか。たまに錯覚している広告人もいる。

私自身は、美味しくないものをオイシイとは言えないし、自分で効果を感じない健康食品を勧める嘘もつけないし、お金に困っている人に高金利の融資を勧めることもできない。広告ビジネスで、そういう仕事を引き受けなくても何とか報酬を得られる環境にいたのは幸せかもしれないが。

結局、Twitterの世界も同じなんじゃないだろうか。
哀しいかな、そんな様々な広告の舞台裏を見てきたせいで、著名人に限らず大量のフォロワーをもつ人の何人かが、年中、様々な商品のおすすめツィートをしているのを見ると、「ただで、つぶやいているのかなぁ? 1ツィートで高額のギャラをもらっているのかな?」等と猜疑心を抱いてしまうのも事実。
とは言え、そんなカリスマTwittererたちも品質の悪いブランドや製品に対して、平気で称賛を繰り返していれば、必ず「あの人はヘンだ」となり、淘汰されるのが世の常だ。


中にいる人々は、非常に冷静にツィートを見ている。詐欺的な甘い情報に、たまたま踊らされる人が出てきても、必ず「おいおい、違うだろ」という人が出てくる。周到な証拠を突きつけて凶弾する人もいるはずだ。


Twitter上では、フォロワーを増殖させたい人々の欲求を逆手にとって、スロットマシーンのようにリフォローを獲得する術を教授する教祖のようなおかしなビジネスを始めている人々もいる。これも同じように自然に淘汰されていくだろう。
人間の心や生命を傷つけるような犯罪的な広告やPRは当然あってはならないものだ。

そう考えると、今取りざたされているようなTwitter広告の規制については、大騒ぎをするようなものでもないと思える。ソーシャルな世界は、個人がメディアになれるとともに、多くの個人がパトロールする、かなりまともなコミュニケーションワールドである。

Twitterは自然の法則の上で成長し、社会的に不都合な情報は自然淘汰されていくに違いない。
私は、中にいる人自身の良識も試される、そんな世界なのではないかと思っている。

火曜日, 5月 18, 2010

「光の道」Ust討論後、佐々木さん空白39時間に想うこと。

5月14日、Softbank孫さんとITジャーナリスト佐々木俊尚さんの「光の道」討論は、Ustreamで5時間にわたって公開された。既にTwitter上では過去の話題になってしまったようだが。

孫さんの<6200万回線全てを、税金ゼロで光回線にし、電子医療カルテや電子教科書を日本中で誰もが使えるようにすべきだ>という考えと、佐々木さんの<光回線を日本全土に通す前に、プラットフォームの拡充が重要>という意見の対立。Liveで討論の行方を見守っていた約22万人の人々からTwitterやブログで様々な意見が述べられているし、この討論の詳細については下記にもまとめられており、Ustのアーカイブにも残っているのでそれを参照にされればいいと思う。

http://www.tarosite.net/blogging/-hikari-road.html
http://www.ustream.tv/softbankcorp-jpn


私はこの「光の道」討論を別の視点でとらえてみたい。
なぜ、多くの人々がこの2人の討論に熱中したのか。5時間にもわたる気の遠くなるような公開番組を、なぜ深夜まで見続けたのか。デジタル時代の到来と言われようと、全ての人がITリテラシーが深いわけでもあるまい。

余談だが、この視聴者インサイトこそ、コミュニケーションを考えるときの原点だと思う。
知りたい、疑いたい、しかし、信じたいし、感動したい。演出されたものではなく、だ。

孫さんも佐々木さんも「日本再生」という同じベクトルに向かって、事業家とジャーナリストという異なる視点で戦った。いや、戦いではなく、多くの人の疑問を解く手掛かり討論と言うべきか。
両者とも、デジタル革命によって誰もがその恩恵を受けられる生活を実現することが日本を豊かにすると思っているし、当然、それがデジタルのアンビエント化によって生まれることも理解されている。

官公庁、営利企業など既得権益者の抵抗勢力は一度に片づけられない。現実のハードルを知り尽くした佐々木さんだからこそ、コンテンツとプラットフォームとベルトコンベアー整備は、制度改革だけでは一気に解決できないという視点で、プラットフォームに拘った。真実を追うジャーナリストの大人論理だ。一方、孫さんは、胸の内は解らないが、信ずれば山も動くという情熱の天才少年的な論理で突っ走る。しかも、企業のスケール感を見せつけながら、ほろりとさせる人情も平気で晒す。

結果、日本再生という最終目標に向かって、ソフトバンクが国税を1円も使わないで日本の隅々まで光回線を引く、そのためにオープンな議論を継続するという条件の元、孫さん側理論を見守る空気が出来上がった。佐々木さんがうまく引き出した落とし所ということか。
5時間もかけた討論終了後、疲労しているはずなのに、何かさわやかな余韻を残したのは、きっと孫さんと佐々木さんの持つ人間としての品性だったのだと思う。お互いの理論をぶつけながらも、傷口に塩をすりこむような上げ足取りはしないという紳士協定のような。

討論後も孫さんは相変わらずTwitterにどんどん登場し、Ustアジア設立、新製品発表と新たな話題提供に余念がない。

前置きがずいぶん長くなったが、討論後に期待していた佐々木さんのツイートは全くなかった。多くの人々が「どうされたのですか?」「総括お願いします」と問いかけるも、沈黙が続いた。39時間後に佐々木さんからようやくツィ―トされたのは、「議論をしつくしたので、ひと区切り。しばらくは執筆に専念します」。佐々木ファンはホッと胸をなでおろした。

しかし、このコメントが佐々木さんの絞り出したような悲鳴のように聞こえたのは私だけだろうか。

佐々木さんの著書を何冊か読んで思うのは、理屈の解らない人も想定して、懇切丁寧に説明しているということ。奢りというものが全くない。

だから、今回の討論でも人間としての優しさと、ジャーナリストとしての使命の狭間で、苦しいアイデンティティーにジレンマを感じられたのではないかと思った。

カリスマ孫さんを中心に湧き上がる「光の道」。性善説だけでは進まない現実。佐々木さんがジャーナリストの使命として、どこまでその緩やかな理論を許すべきだったのかを、何度も何度も自問自答されたように思えてならない。
 
これが、私の甘い思いすごしの感想であれば、それはそれで良いのだが。

木曜日, 5月 13, 2010

会社の名前"SPECTRUM"の意味

会社の名前はSPECTRUM Inc.(株式会社スペクトラム)というのだけど、最近、その意味を聞かれることが多い。日本語ではスペクトルと使われることの多い、元々は物理学用語。物質の複雑な要素や強度などを整理するとできる分布図のようなものだ。
今は化学や経済学や様々な分野で使われているけれど、「光のスペクトル」が最も解りやすい。光の色がグラデーションバーコードのように出現する。虹も同じ。


コミュニケーションを考える時は、同じような複雑な要素に悩まされる。性差や年齢、学歴や経済状況などの属性だけでなく、思いも行動も違うさまざまな人間がいるのだから。しかも、接触するメディアも多様化して、時間軸も一定には収まらない。

しかし、面倒な要素も目的に合わせて、うまく分布させられれば、気持ちのいい、美しいカタチのコミュニケーションができるのではないか。そこにアタマを使わねば。
だから、光のバーコードのようにロゴも太さのグラデーション。どうでしょうか。



日曜日, 3月 21, 2010

In The Pocket

4年間もそのままにしていたこのブログRoomを再開。
コミュニケーションに関すること、感動したこと、
発見したこと、などなどを気ままに綴る
「どらえもんのポケット」のような場所です。