月曜日, 9月 27, 2010

デジ・キャンの舞台裏から。

デジタル技術の開発競争が激化し、毎日のように進化したテクニックがリリースされるようになった。このような革新的技術は広告・販促キャンペーンにも、いち早く取り入れられるのだが、果たして、これが消費者に「買いたくなる」動機づけとなるのだろうか。
問題は、そのような技術を駆使して得られる結果である。販促企画は、ブランドの認知を上げたり、話題作りのPRとは目的が異なり、どんなに話題になろうと製品が売れない限りクライアントに胸を張って請求書を出せないのだ。

今日は販促企画で展開されているデジタルキャンペーン(通称:デジ・キャン)について、その制作側の視点で書いてみたいと思う。

販促キャンペーンを考案する時、大抵は真っ先に何を景品にすれば受けるかを考え始める。ブランドや製品と関連付けながら。確かに欲しい景品が当たるキャンペーンは購買の動機づけにはなるのだが、私は人の購買行動の背中を押すのは本能や習慣性を刺激することではないかと思っている。

例えば、普通の男性諸氏なら美しい女性を見れば振り返りたくなるし、空腹の時に美味しそうなモノを見れば口の中も湿って来る。また、食事の後に歯を磨くことはあっても、食事の前に歯を磨く人はほとんどいない。つまり、人間の深層心理や習慣的な行動パターンに同調できる仕組みというものは、思わず「買いたくなる」気持ちにさせやすい最も有効な方法だと思うのだ。これはアナログであれ、デジタルであれ、手法や演出が違っても永遠に変わらない法則に違いない。

そんな法則を実感したのが、2007年に実施した“PEPSI NEXバザール"キャンペーンである。
前年同時期の売り上げを50%も伸ばす結果となったこのデジ・キャンは、目を見張るような景品を揃えたわけでも、革新的なデジタル技術を駆使したわけでもなかった。
簡単に概要をまとめると、PEPSI NEX(製品名)を購入して獲得したポイントを通貨に見立て、仮想デパートで好きなモノを選んで購入できる(実際には抽選権利の獲得)というアイデア。コアターゲットはファッションや新しい雑貨の好きな若い人々だが、もう少し広い層までにアピールする使命を受けていた。

"PEPSI NEX バザール"と名付けた仮想デパートは1Fが生活雑貨、2Fがレディスファッション、3Fがメンズファッション、4Fは製品を買わなくてもチャレンジできる有名ブランドの福袋応募フロア、そして、別館は人気ファッション情報のコーナーとなっていた。





このキャンペーンではサンプリングやその他のプログラムも展開しているが、デジ・キャンの大まかな流れは下記の動画(約2分)でご理解頂けると思う。
(海外向け資料なので英語版日本語字幕)





◆人は「ついつい」や「ついでに」を繰り返す。
このキャンペーンは毎週、陳列商品が変わり、毎週末の抽選結果が翌月曜日に発表された。自分の応募したものが当たったかどうかはWEBサイトのマイページ(自分のポイントや応募履歴が掲載)に行かないと判らない。月曜日に当落を確認しにWEBサイトに来た人は、ついでに、翌週の陳列商品を確かめてみる。ついでに、購買を伴わなくても応募できる福袋の中身もチェックして、応募してからWEBサイトを出る流れだ。今週、気に入った陳列商品がなければ、翌週まで新しい商品を待つ人もいる。こうして、1度参加すると、次の週もその次の週もこの仮想デパートに足を運んでくれることになった。最高では9週間で2000本以上製品を購入して参加して下さった方もいた。
この導線のカギは、人間の「ついつい」と「ついでに」というインサイトにある。


◆目の前に多くのモノが並んでいれば、選びたくなる心理。
ECショップのような機能を持たせた仮想デパートに陳列した商品は9週間で、55の人気ブランドから162種類。ポイント数に合わせて選べる景品は色違い、サイズ違いを合わせれば、500アイテムに近い数を収集した。勿論、制作側としては全て人気商品で揃えたいとは思うのだが、ブランドから提案される商品の中には「?」と思う場合だってあるのだ。
しかし、陳列した商品が売れ残る(応募対象にされない)ことは全くなかった。世の中には様々な嗜好の人々がいる。モノが欲しいというより、選ぶ行為が楽しいのだということを教えられた。



◆もはや、人はリアルとヴァーチャルの境界線を意識しないで生活している。
このように大量の景品を揃えたのだが、PEPSIロゴのついたオリジナルのアイテムはひとつもない。
なぜなら、PEPSIブランドは露出などしなくても既にBigブランドであり、私たちはその「楽しい世界感」を伝えたかったから。あえて、リアルとヴァーチャルをクロスさせて記憶の相乗効果を上げるために、キャンペーンと同じタイミングで街のブランドショップの店頭でも購入できる最新の商品に限った。仮想デパートで見た商品をリアルで確かめる人もいれば、リアルのショップで見た商品を仮想デパートで見つけて入店してくれる人もいる。
配布したブログパーツの中の毎週更新される陳列商品を見て、仮想デパートに来店してくれる人もいた。
「気になる商品はなくなる前に手に入れよう」という気持ちは、ショッピングをする時には当たり前に起こるものだと思う。リアルだろうとヴァーチャルだろうと。


◆デジタルでも井戸端会議は楽しい。
そして、期せずして、獲得した商品をブログにアップして、多くの人が「今週当たったモノ」を見せ合っていた。「子供のためにおもちゃのドラムにした」「奥さんのためにレディースに応募した」など、自分自身の好む商品がない場合でも誰かのためにと応募する人が沢山いた。そして、多くのブログで立ち話をするようにキャンペーンを中心にした会話が成り立って行った。
3年も前の事なので、TwitterやFacebook等のオープンなソーシャルコミュニケーションも一般には認知されていなかった時ではあったが。

このキャンペーンは、私にとっては実験でもあった。こんなことを言ったら怒られそうだが、今ならクライアントも許してくれるだろう。多分、製品を購入してくださった方々にも楽しんでいただけたのではないだろうか。

どんどんデジタルディバイスやソーシャルメディアが広がり、デジタル技術が進化する時代だからこそ、今もう一度、人の心や習慣をつかむということについて、じっくり考えてみたいと思っている。

水曜日, 8月 18, 2010

がんばれ、桑田君!

今年の夏は、ひどく暑い。
逗子海岸の近くに住んでいる私も真っ黒に日焼けしていた学生の頃とは違って、この暑さの中で海に出かけようとは思えなくなってしまった。

今回のエントリーは「がんばれ、桑田君!」だ。桑田君とは、サザンオールスターズの桑田佳佑氏のことである。あんなに元気なミュージシャンが先日、食道がんの手術を受けたと聞く。
大きなダミ声とステージを端から端まで駆け回るエネルギッシュな姿に、年齢の陰などまったく感じさせない人だったのに。

実は、彼と私は小学4年生から中学1年生の2学期まで、茅ケ崎市の同じ小中学校で学んだ。
だから、私には彼がどんなに有名になろうと桑田君と呼ぶ以外に考えられない。特別に仲が良かったわけでもなく、クラスメートでもなかったけれども。

今でも小学校時代の桑田君の記憶は強烈に残っている。授業の休み時間になると、よそのクラスから我がクラスの悪ガキ達のところにやってきて、教壇の前で大騒ぎ。手振り足振りの大きなジェスチャーで暴れまくる。当時人気だったクレージー・キャッツか何かの真似をしていたのだと思う。とにかく明るくて、どこか魅力的な小柄な男の子。前髪を切りそろえた坊ちゃん刈りの桑田君は既に学内の人気者だった。

転校生だった私は、今では考えられないような痩せっぽちで眼ばかりが大きい子供だったから、「でめ」とか「でめきん」とあだ名をつけられて、ずいぶんと悪ガキ達にからかわれていたような気がする。

ある日、桑田君がやってきて、「今度の日曜日にサー、ボクの誕生日会やるんだよ。こない?」と誘ってくれた。
今となっては、どうして桑田君が私を誘ってくれたのか、私がどんな返事をしたのかも忘れてしまったのだが、心細い転校生には嬉しい掛け声だったに違いない。だからこそ、その言葉をずーっと覚えていたのだろうと思う。
結局、悪ガキ達に虐められるのではないかという不安で、彼のお誕生日会に行くことはなかった。今思えば、残念な事をしたものだ。

私は中学1年生の3学期に鎌倉に引っ越した。学校も転校したので、その後の桑田君がどうなったのかは全く知る由もなかった。

桑田君を再び見つけたのは、大学生になってからだ。当時の人気番組「ギンザNOW」の中であった。何気なくつけたTVから聞こえる、ノリの良い音楽とダミ声のふざけたような歌声。よく見ると、坊ちゃん刈りではなくなっていたが、見覚えのある顔に釘付けになった。テロップで桑田佳佑と名前が流れて、飛び上がった。まさか!直ぐに小学校の卒業アルバムを取り出して確認した。やっぱり、桑田君だ。
ヤマハのコンサートで優勝したばかりで、アマチュアからプロにデビューする頃だったと思う。その時に歌っていたのが、なんと「女もんでブギ」なんていう卑猥な歌詞の曲だから、ぶっ飛んでしまった。あの頃、彼の日本語とも英語とも解らない歌が日本の代表的なポップスになるとは、誰が想像しただろうか。

しかし、桑田君は次々とヒットを飛ばした。彼の描く湘南の景色は私にとっては日常のシーンの連続であり、茅ヶ崎の海岸通、江の島、稲村ケ崎、葉山トンネルなどなど、毎日見てきた景色が物語になっていった。彼が言うように、この地に育った人間は「湘南」という言葉は使わない。海岸は「ハマ」であり、稲村ケ崎は「イナムラ」、七里ガ浜は「シチリ」、サーフボードは「板」である。
自分たちの独特の仲間用語があり、その言葉遣いで地元の人間かどうかがすぐ分かった。





桑田君がミュージシャンとして駆け上がっていく時、私は広告代理店に就職し、音楽番組のスタジオやジャムジャパンのコンサートなどでニアミスを繰り返したが、再会することはなかった。
もっとも、今会っても、彼は痩せっぽちな転校生の女の子のことも誕生日会のことも覚えているはずもないのだけれど。

桑田君や私は日本経済の高度成長期に育ったイケイケ世代だ。同年代の多くの人々は、日本に住んでいる限り飢える人などいないと思い、給料は年齢と共に上がるものと信じ、海外の高級ブランドや目まぐるしいファッションに親しんだ第一世代でもあった。C調などと言われながらも友達と汗をかき、常に面白い事を探し、遊ぶのに忙しい毎日を送り、深刻な挫折に出会う事も少なかったのではないかと思う。
こういう幸せな日々が過ぎた今、日本経済の停滞から起こる失業や給料の減少や希薄な人間関係を目の前にして、初めて自分の力ではどうにもならない挫折感を味わっているような気がするのだ。

そんな我々のジェネレーションにとって、30年以上もの間、J-POPを牽引し、若い世代へとその音楽をつないでいく桑田君は元気印のシンボルのような存在とも言える。
彼の活躍は、私たちにも「まだ、イケルぞ!」とエールを送ってくれているような気がするのだ。

だから、今、私も彼にエールを送りたい。「桑田君、まだまだ、イケルぞ、がんばれ」と。




土曜日, 8月 07, 2010

コア・アイデアは、「時間戦略」で語れ。

広告会社の企画会議で、常に飛び出すのは「コア・アイデアに沿って…」という会話。
コア・アイデアとは、言うまでもなく、広告・販促キャンペーンを形成する戦略コンセプトであり、目標を達成するための施策のメカニズムや効果的な表現を考える根っこである。
TVCFの面白いギャグとか人気タレント、プロモーションで貰える賞品アイテムのような表現アイデアのネタではない。しかし、広告人でも開発途中で、頭の中が錯綜し、混乱する人もたまいる。
「やっぱり、Gagaだよ。Lady Gagaをカッコ良く使えれば、ゼッタイ話題になるよ!」みたいな事を真面目な顔で発言する。

TVを中心とするマス広告が主流だった時代には、これらのクリエイティブ表現のアイデアとコミュニケーション戦略のコア・アイデアが同じように扱われていたこともあった。当時は、何と言っても広告代理店が力を注ぎこむのはTVCFを中心とするマス媒体広告のクリエイティブ。クライアントも媒体費を含めて最も大きな広告予算を割いた。
コミュニケーション戦略とは広告戦略にすぎず、マス広告の媒体プランやクリエイティブブリーフに集約されてしまう。プロモーションやDMなどその他のコミュニケーションプログラムは「それに合わせて、よきにはからえー」的な展開が大勢を占めた。

売るコミュニケーションのプロ達も、「カッコイイ○○」とか、「グッとくる○○」とか、「スゴク素敵な○○」など、やけに形容詞の多い言葉でまとめられたクリエイティブブリーフに疑問を感じながらも納得しなければならず、結果、トータルコミュニケーションとして俯瞰して見ると、それぞれの活動のアウトプットがチグハグになることもよく起きた。

今では企業もコミュニケーション活動全般に「売れる効果」を期待するようになり、ターゲットも従来の属性に、Tribe[共通の趣味嗜好をもつ部族的な集団]と呼ばれるセグメントが加わった。さらに、WEB、モバイル、デジタルサイネージなどデジタルも含めて媒体は多様化し、情報をキャッチするディバイスも加速的に進化するようになり、ソーシャルグラフはますます複雑になっている。
当然、クロスメディア・コミュニケーションを開発するためのコア・アイデアも、全ての施策にパーっと網を放つような戦略的コンセプトに変わっている。

一旦発信されたブランドや製品の情報は、様々なタッチポイントを通過しながら、勝手に独り歩きするようになった。
受け手であるターゲットは自分の興味に合う情報だけを器用により分け、不要な情報はポイっと捨て去る。気に入った情報だけを持ち歩き、彼ら自身が自分流に発信する媒体と化した。
そのようなコミュニケーションの流れをシュミレーションしながら、思い通りに、目的地まで落とし込むのがキャンペーンのSTORYである。




STORYのシナリオは、生活者の刻々と動く時間の中で描かれなければならない。
ターゲットのインサイトとは習慣や流儀、学習など、彼らの生活24時間から育まれるものだ。
彼らが、いかにそのブランドや製品の情報を選択し、いかにその情報を抱えながら彼ら自身の時間を共に費やしてくれるのか、いかなる時にその情報を友人に話したくなるのか。そんな行動の流れが1つのSTORYになり、そのシナリオの善し悪しを決めるのがコア・アイデアである。

かつて、私の働いていた広告代理店では"Time is a new Currency"時間が新しい通貨である)というスローガンを掲げた事がある。当時はピンとこなかったが、今では、確かにコミュニケーションを考える時、「時間」こそがコア・アイデアを生み出す、大きな手掛かりなっていると思えるようになった。

火曜日, 7月 06, 2010

Twitterとリアルメディアの効果比較はできるのか?

日本のユーザーが1000万人を越えたという理由で、Twitterを利用した広告手法の開発が百花繚乱とも言える様相だ。確かに旧来のマスメディアに比べれば、企業が発信する情報より、緩いつながりであっても身近なフォロー、フォロワ―の発言の方が信用されやすいかもしれない。

果たして、Twitterだけでブランディングや購買行動に効果を保証できるのだろうか。Twitterの効果測定の尺度と言えば、フォロワー数やRT(ツィートを転送)数などがあげられる。しかし、クロスメディアの仕事をしていると、多少の齟齬があってもリアル媒体もデジタル媒体も共通の尺度で測定してみたくなるものだ。数値化した場合、Twitterはリアルメディアの効果を越えられるのか?

今日は、無印良品が2月にTwitterを利用して注目された“タイムセール、なう!”を振り返って、KPIの数値化シュミレーションをしてみたい。
“タイムセール、なう!”は、当時Twitterを使っていた広告/コミュニケーション業界やマーケターの方々には既に周知のプロモーションだが、キャッチアップしそびれた方のために簡単に説明をしておこう。

無印良品はフォロワーが15,000人に到達したのを感謝して、2月16日11:00から3時間だけ(実際には1時間延長)実施したTwitter専用のタイムセールである。具体的な内容は下記URLからTechWave.jpの湯川氏と良品計画の川名氏の対談をご覧になると時系列でどのような変化が起きたかかがご理解いただけるだろう。
http://techwave.jp/archives/51411971.html

私はクロスメディア・コミュニケーションのKPIを試算する時、逆ピラミッド型のオリジナルフォーマットを使っている。そのフォーマットで「タイムセール、なう!」のKPIシュミレーションをしてみたのが、下記の図表である。
フォロワー15,000人がどのくらい情報をRTし、その情報を受け取った人々が次の人にRTし、最終的に何人がセール会場サイトにクリックして出かけて行ったのか、セール会場に行った人がどのくらい購入したのか。まさしく、シーディング(種蒔き)プログラムである。




ここでは、様々な調査のベンチマークを使いながらシュミレートしたのだが、想定数値の理由を事細かくは述べていない。理由はこのシュミレーションの数値が精巧であるかないかは大した問題ではないからである。RT率が10%前後ぶれても大きな傾向は変わらない。そういう前提で、見ていただけばいいと思っている。尚、630人が購入したと聞いているが、金額は不明なので、最もボリュームゾーンと考えられる送料無料ラインの¥3,000を平均値とした。

たった4時間で行われたTwitterのRTがTLに流れた人々はおおよそ136万人に上る。雑誌の発行部数をImpressionと考えて広告掲載ページに換算すれば、With(45万部)なら3ページ、VERY(25.2万部)なら5.4ページ、JJ(21.5万部)なら6.4ページ分に相当する。金額換算すれば、Impressionだけで、JJなら1,472万円の価値があったということだ。
CTRの2.8%も高い数字だが、15,000人のフォロワーに対し、CVR4%の高さは驚異的である。しかも、セール会場に行った人の10人に1人は購入していることになる。この計算で行くと、3,000円の買い物をしてもらうのに¥317(CPA)の広告費しかかけていないことになる。
1日で1000人(6.7%)のフォロワーが増えたというのも大きな効果だろう。

さて、このような成功例をリアルメディアとの数値比較で見てみると、Twittrerだけで目的が達成できると言い出す人もいるのではないだろうか。
私は、簡単にそのような提案をしてしまう広告人や何でもかんでもTwitterを使えばいいと思う広告主が出てくることを危惧している。

無印良品はTwitterrアカウントを開いてから約4-5カ月間をかけて、15,000人のフォロワーを獲得したのだ。Face to Faceの些細な問い合わせに丁寧に対応したり、昼夜を問わずTLでやり取りされるツィートを見て、ブランドに対するコメントをヒアリングし、初めて達成できたことでもある。
この長い時間と人的な対応は、さすがに広告費換算は簡単にできない。この逆ピラミッドの中に数値を入れるのが不可能な部分なのである。

私見だが、Twitterはコミュニケーションをサポートするプログラムとして活用するのが最も利用価値が高いような気がする。SMMが益々進化する中で、Twitterの上手い使い方もどんどん提案されていくに違いない。

マーケティング・コミュニケーションを仕事にする身にとっては、数値のマジックに自らも振り回される可能性が高いこと、そして、そのマジックを見抜くには数値とは関係のない次元でモノを見る力も必要なことを改めて強く感じている。

日曜日, 6月 13, 2010

いとしのエリック・クラプトン

最近は記憶力の低下が気になる。だから、大切な記憶はどこかに留めておこうと思う。
今日のエピソードは、Eric Clapton(エリック・クラプトン)。

私がエリック・クラプトンに偶然出会ったのは、1988年11月。なんと、成田空港の出発ゲート階下にあるトイレに駆け込む直前であった。彼のニューアルバム[AUGUST]を当時のウォークマンで聴きながら、ふと先方を見ると特別ゲートに総勢10人くらいの外国人がざわざわと集まっていた。
後で判明したのだが、私が仕事のために泣く泣く見送った「エリック・クラプトン日本公演ツアー」を終えて、帰国の途に就くクルー達だったらしい。
私は目ざとく、その中にエリック・クラプトンの後姿を発見した。彼のコンサートやPVを見続けているファンならば、後姿だけでも見分けはつく。とは言え、彼の"Tearing us apart"を聴いているまさにその時、本人が目の前に現れたのだから、その衝撃は言葉では表せない。



"Mr. Clapton?" 思わず声が出た。
驚くことに、彼は"Yes"振り返り、私の方にスタスタと歩み寄ってきて、階下から見上げ、にっこり笑って聞き返してくる。
"What's your name?"
どうしよう、私の名前なんか言ったって誰だか判るまい。相手は世界の3大ギタリストの1人で、神様だ。
返答に困って汗が出た。しかし、バカみたいに無言で微笑んでばかりもいられない。仕方なく、私は自分の名前を告げた。
彼は頷きながら、一瞬首をかしげた。思いだせないというように。どうも、私の親しげな呼びかけに、日本公演の日本人スタッフと間違えたらしい。
言いたいことは山ほどあったが、"I'm a crazy fan of you and very happy to see you..... Take care!"と中学生英語のようなアホらしい決まり文句しか出てこなかった。そして、彼は手を振りながらゲートに消えた。

茫然として連れの待つロンドン行き搭乗ゲートに戻り、コトの一部始終を話すと、友人が言った。「同じフライトなんだ。アンカレッジ経由だから、また会えるね、きっと」と。
私は仕事柄、芸能人や有名人に会う機会は度々あったが、パパラッチのような追っかけには全く興味がなかったし、今でも関心はない。だが、この時だけは違った。エリック・クラプトンを知らない友人に、永遠とその音楽の魅力を語り、アンカレッジでいかに再び彼を捕まえるか、どうやって記念写真を撮るかという策を機内で練り続けた。

アンカレッジで給油する時間は1時間弱だったと思う。乗客は殆んど機外に出て、トランジットエリアでショッピングをしたり、バーに入ったり、軽食をつまんだりしていた。エリック・クラプトンも例外ではなかった。
数人のクルーとビールを飲んで談笑していた。私達はカメラを抱えて、ガラス越しに「その時」を狙って、右に行ったり、左に行ったり。突撃しようかと思ったが、あまりの人の多さにシャッターチャンスは全くない。私と友人は搭乗口前のベンチでひたすら彼を待つことにした。殆んどの乗客がコールのアナウンスに合わせて搭乗後、彼らがゆっくりやってきた。入口に立っていたブリティシュ・エアウェイのスチワーデス達も彼を見て、興奮しながらつぶやいた。
"Oh, Jesus Christ!!"
そうだ、英国人の彼女達にとっては、当然、彼は神様なんだと妙に感動したのである。

「そらっ、今だ! 走れーっ!」 すでに誰もいなくなった機内までのブリッジを彼らを追って全速力で走った。
"Mr. Clapton?"  私は再びやってしまった。エリック・クラプトンとクルーは立ち止まって振り返った。そして、彼らは私達を見て笑った。想定内という感じで。クルーの1人が、「とうとう来た、来た!写真撮ってあげれば?」と彼に言った。
"Take a picture with ME, please!" と駆け寄ると、エリック・クラプトンはその大きな手を私に差し出した。「これが本物のスローハンドだ!」とぶつぶつ言いながら、私はしっかり握手した。その後、彼はカメラに向かって、私の肩をギュッと抱いてツーショットとあいなった。
心臓が飛び出すかという思いはこんな時のことを言うのだ。


彼と友人とのツーショットは私が撮ったのだが、ブルブルと手が震えて、全く記念写真にはならず、後で友人にこっぴどく怒られた。
その時、成田では言えなかった言葉が次々と飛び出した。「あなたの音楽は最高」だとか、「スローハンドに触れたのは幸せ」だとか、「次の日本公演には絶対行く」とか、単なる追っかけミーハーの極みである。

エリック・クラプトンは、そんなくだらないファントークに応えながら、機体の入口で何回も投げキッスをしながら機内へ乗り込んで行った。
私の人生で最初で最後のパパラッチ体験は、そこで終わった。20年以上も前の話である。

私は様々なジャンルの音楽を聴くが、エリック・クラプトンのおなかの底にズシっと響いてくるギターの音と擦れた声には特別な想い入れがある。特にブルースはたまらない。
彼の音楽に興味を持ったのは1980年代に入ってからで、ザ・ヤードバーズ、クリーム、デレク&ドミノスなどの輝かしい時代の音楽はそれまで知らなかったし、フィル・コリンズを聴いていて彼に辿り着いたという有様だった。
今では、「いとしのレイラ」だけでも様々なバージョンを揃えて、私の所蔵するCDの中では、彼のものが最も枚数を数えるほどになったが。




最近ではiTune Storeのお陰で、音楽はデータDLすることも多くなったが、やはり彼や大好きなアーティストの新譜はCDで買ってしまう。
解説に目を通したり、CDジャケットを確かめたくなるから。
電子化が進んで、こういう楽しみがなくなる事には少し不安も感じている。このあたりは、デジタルネイティブと大きく違うカルチャー感かもしれない。



さて、今日は久々に彼の"Danny Boy"を聴こう。
この聴きなれたアイルランドの民謡も彼のアコースティックギターにかかると、沁み渡る泣きの音色になる。
人間の魂の深さを感じさせる音色は、何度聴いても、体中を感動させる。
私にとっては、疲れた時の至福のひと時とも言えるようだ。

水曜日, 6月 09, 2010

たかがKPI、されどKPI ?!

「この企画で投資効果はあるんですか? 」 ― こうしたクライアントの問いかけに、「またか!」と頭を抱える広告人は多いはず。昨今の厳しい景況感の元、ムダな広告販促費を使いたくないというクライアントの意向はもっともな事ではあるが。

そこで登場するのが、ご存知のKPI(Key parformance indication:重要施策指標)。企画施策の効果を可視化するための指標である。本来、指標とは数値だけではないのだが、多くのクライアントは数値を拠り所とする。広告代理店のマーケタ―は、いかに、投資効果が良い企画であるかを客観的な数字を使って、説得に走らねばならない。
デジタル企画が増加するにつれて求められることの多くなったKPIだが、元々は、「モノを売るためにかかる投資コストの妥当性」を観測するための指標で、ダイレクトマーケティングからの発想。今では、「売り」に直結しない広告費は真っ先に削減されるので、何でもかんでも呪文のようにKPIと言われるのだ。
しかし、このKPIとは、事前予測値としては、どこまで信憑性を期待できるのであろうか。

広告施策がデジタルメデイアだけで完結する場合は、過去のベンチマークとなるログデータを参考に組み立てれば一応それらしい効果予測は出来上がる。問題は、リアルメディアとデジタルメディアを組み合わせたクロスメディア施策の指標化だ。

リアルの世界での数値とは、TVは世帯視聴率が殆どで、例え個人視聴率があったとしても視聴者数は推定数値にすぎない。新聞・雑誌等の発行部数は、広告主対策とも言える水増し気味の公称部数とABC協会が発表する発行部数では大幅な誤差が出る。実売数に至っては、公称部数の半分以下ということもある。
かつて、「実売数が低いと編集部の士気が下がるから、出版社内部でも機密事項なんです」と聞いて、ニヤリとしたことがある。
交通広告では乗車客数や通行者数の概数しか出てこない。車内吊や大きな駅貼りポスターだって、公表相当数の乗客や通行者に本当に見られているとは限らない。
例え調査結果として数値が発表されても、インタビューやアンケート調査であればデジタルログのような証拠に裏打ちされていないのだから、やはり推定数値としか言いようがないのだ。



そもそもリアルメディアでの広告とは、直接、販売効果を狙うというより、ブランディング効果や製品認知を上げるなどの目的で使用される事が多く、リアルメディア広告単体で直接的な販売効果を予測すること自体が不可能であり、不毛でもある。

しかし、クロスメディア施策の場合、殆ど販売が最終目的になり、リアルメディアの広告からいかに多くの人々を企業のWEBページやECサイトにドライブさせられるかという予測を立てなければならない。しかもCPA(製品を1個売るのに掛かる広告費単価)が2000円のように条件設定されていたりする。
効果予測する時に重要なことは、クライアントの過去の実績データを可能な限りの開示していただくことと、数値化しやすいデジタルメディアの指標にリアルの指標をいかにすり合わせるかを考えること。つまり、リアルメディアのImpressionや、Search、CTR(Click Through Rate)が、どの段階のどの数値を指すのかという明確な尺度設定が重要になってくる。

そして、最終的には、ブランドや製品カテゴリーの動向や時代のインサイトなどに照らしながら、リアルメディアから提供される数値を増減して全体像に組み込んでいける個人の「経験」と「読みの判断」が決め手になると思うのである。
膨大なデータを抽出するシステムやアプリをつくれば自動的にはじき出せるような錯覚に陥るが、私は決してそうは簡単にはいかないだろうと思っている。
「なんだ、感ピュータか!」と笑われそうだが、実はそこがマーケティング・コミュニケーション・プランナーの実力なのだ。

KPIとは広告活動のバイブルでもない。クライアントとの信頼関係の中で、あらゆる施策を共に軌道修正するために使われるべき指標だと思っている。

そう言いながら、マーケティング・コミュニケーションプランを考える時、KPIが絶対値ではないと知りつつ、必死で数値の条件を洗い出し、その数値に捕り付かれそうになる自分がいることも確かなのだけれど。





土曜日, 5月 29, 2010

Twitter広告って、どうよ。

日本のTwitterユーザーが今年中には1000万人を超えるという。今や青色吐息の広告業界がこの勢いあるTwitterでの広告機会を見逃すはずはない。最近では、TL内でのつぶやき広告配信「つあど」やアフィリエイトを付加した「つぶレコ」 の開始が発表され、Twitter内で是非の論議を呼んでいる。この議論には、個人からの発信をベースに成立しているTwitterの世界に、コマーシャリズムをどこまで持ち込むか、持ち込んで良いのか、という点で見解の相違がある。

米国Twitter社からは「基本的に第三者のTL内ペイドパブは禁止」の宣言も出されたが、個人発信なら良いとか、ハシュタグをつければいいとか、既に米国では"Tweet Up"(Twitter用のAdsense)"が開始されいるではないか等、どうも許容基準は依然としてグレーだ.。

Twitterを使う目的は人それぞれ。他人との緩いつながりを求める人もいれば、自分の欲しい情報を素早く収集したい人もいる。私はどちらかといえば後者だ。もっとも、Twitterを始めてみると、音信不通になっていた友人と再会したり、優秀な同業者の方々を発見したり、140文字で文章を書く意義を感じたり、有益な情報キャッチする以外にも面白い副産物があることを実感している。



マーケティング・コミュニケーションに関わる仕事をしている私にとって、当然、広告やPRの話は他人事ではない。Twitterを使って、企業と人々を効果的につなぐ方法も模索している。TLに煩いほど大量の広告が流れるのは考えものだが、「つあど」や「ついレコ」のように明確にコマーシャルだと区別できるものの方が、案外、健全なような気もするのである。
それよりも、詐欺的なツィートやPsychological trap (意図的にマインドコントロールをする)のような悪質なパブが混在する事の方に危惧を感じるのだ。

よく考えてみると、このような広告手法の善し悪しはリアルの世界でも従来から問われてきたことであり、即時的な炎上はないにしろデジタル世界と大差はない。広告・PR活動では発言力や人気のある人をEndorser(ブランドや商品を支持する人)として起用している。TVCFのようなものであれば問題にもされないが、商業的な起用なのか、偶発的なものかの見分けのつかないことが、時として火種になる。

例えば、「テストモニアル」。注目されている著名人等が自分で使ってみて良かったと他人に勧めるような手法だ。通常は企業から対価を得て、発信する。ビジネスだから本人が本当に使用しているのか否か、評価しているのか否かは別のところにある。
また、「プレイスメント」では、人気ドラマなどで目につく場所に売りたいブランドや商品が露出される。又は、コーヒーショップで頼みもしないクッキーが一緒にサービスされるということもある。
企業は、一般の人々には気づかれないように、ブランドや製品と自然に出会える場を自然なカタチで用意している。そんな仕掛けづくりを広告代理店は年がら年中、考えているわけだ。

私自身、広告代理店時代は大いなる仕掛け人を目指した。それでも一般の人々を騙すようなコミュニケーションは良しとはしなかった。「仕掛ける」のと、「騙す」のは全く違うことだから。
意識的な悪意があるか、ないか。たまに錯覚している広告人もいる。

私自身は、美味しくないものをオイシイとは言えないし、自分で効果を感じない健康食品を勧める嘘もつけないし、お金に困っている人に高金利の融資を勧めることもできない。広告ビジネスで、そういう仕事を引き受けなくても何とか報酬を得られる環境にいたのは幸せかもしれないが。

結局、Twitterの世界も同じなんじゃないだろうか。
哀しいかな、そんな様々な広告の舞台裏を見てきたせいで、著名人に限らず大量のフォロワーをもつ人の何人かが、年中、様々な商品のおすすめツィートをしているのを見ると、「ただで、つぶやいているのかなぁ? 1ツィートで高額のギャラをもらっているのかな?」等と猜疑心を抱いてしまうのも事実。
とは言え、そんなカリスマTwittererたちも品質の悪いブランドや製品に対して、平気で称賛を繰り返していれば、必ず「あの人はヘンだ」となり、淘汰されるのが世の常だ。


中にいる人々は、非常に冷静にツィートを見ている。詐欺的な甘い情報に、たまたま踊らされる人が出てきても、必ず「おいおい、違うだろ」という人が出てくる。周到な証拠を突きつけて凶弾する人もいるはずだ。


Twitter上では、フォロワーを増殖させたい人々の欲求を逆手にとって、スロットマシーンのようにリフォローを獲得する術を教授する教祖のようなおかしなビジネスを始めている人々もいる。これも同じように自然に淘汰されていくだろう。
人間の心や生命を傷つけるような犯罪的な広告やPRは当然あってはならないものだ。

そう考えると、今取りざたされているようなTwitter広告の規制については、大騒ぎをするようなものでもないと思える。ソーシャルな世界は、個人がメディアになれるとともに、多くの個人がパトロールする、かなりまともなコミュニケーションワールドである。

Twitterは自然の法則の上で成長し、社会的に不都合な情報は自然淘汰されていくに違いない。
私は、中にいる人自身の良識も試される、そんな世界なのではないかと思っている。